『クラウモノ』

裸電球一つで照らされただけのほの暗い監房の中で、一人の男が薄汚れた二段ベッドの下の段で、右ももの上に右肘をつくようにして座っていた。男には左の肩から下の腕がなかった。その体勢から微動だにしない男の息遣いは、監房の暗闇に溶け込むように静かで、死に際の病人のようにか細かった。
そんな完成された静寂を打ち破るように、看守の怒号があたり一面に響き渡った。
「6番を開けろ」
看守がはっきりとした声で指示を出すと、男のいる監房の鉄格子が、使い古されたブザーが鳴ると同時に耳障りな音を発しながら開いた。
「新入りだ。今日から6番で生活してもらう。」
そう言って看守とともに現れたのは、まだ10代の幼さを顔に残す少年だった。看守は鉄格子の向かいにある男の座っている二段ベッドの正面に、男と向き合うように少年を下ろした。
「こいつは記憶喪失でな。ここに来るまでの記憶がない。迷惑をかけるかもしれないが、まぁ仲良くしろ。」
看守はそう言い放つと、監房の外から鉄格子を勢いよく閉めた。あまりにも勢いがよかったため、鉄格子と壁がぶつかり大きな衝突音を発した。少年は背後で鳴ったその音にひどく驚いたようだったが、振り向きはしなかった。
看守がいなくなると、監房には再び静寂が訪れた。男の消えるような息遣いに対して、少年は呼吸が乱れ、表情からは不安の感情が読み取れた。おそらく緊張と恐怖によるものだろう。こんな鉄格子とコンクリートで囲まれた薄暗い部屋で、知らない男と2人きりにされれば当然といえるだろう。しばらくして少年の息遣いが安定してきたのを見計らうと、男は口を開いた。
「お前さんいくつだ?」
男の突然の問いかけに少年はひどく驚き、怯えた目で男のほうを見た。少年の呼吸は再び乱れていた。またしばらくして少年の呼吸が徐々に整い始めると、「18です」と消え入りそうな声で答えが返ってきた。少年の歳は見た目相応といったところだった。
「記憶がないのか?」
男は先ほど看守が言っていた少年についての話を思い出しながら、再び問いかけた。
「…はい。ここに来るまでの記憶がないんです、何も…。」
少年は記憶がないことがもどかしいのか、悩ましげな表情で答えた。少年は自分がどのような罪でここに収監されたのかも、まったく覚えていないようだった。それどころか自分の名前さえも覚えていなかった。男は少年が何の罪で収監されたか覚えていないという話に、ちょっとした興味とある種のいたずら心が湧いてきた。男は暇つぶしの遊び相手にこの少年を利用しようと思い立った。
「じゃあお前さんは、いまこの監獄の外の世界がどうなっているか、まったく知らんというわけだな?」
男の含みのある質問に、少年はいぶかしげな表情をした。
「い、いま、外の世界では…なにか起こっているんですか…?」
少年は男の思惑通りに、監房の外の世界でいま起こっている出来事について尋ねた。
男は少年の問いかけを受け、数年前、まだ男がここに収監されるまえに見た外の世界の記憶を呼び起こしていた。
「これは、俺がここに収監される1年前の話だ」

男はどこにでもいるようなサラリーマンだった。
毎日9時には出社し、病気で仕事を休むこともなく、業績も能力もそこそこで、これといって秀でても劣ってもいない、平凡な人間だった。
そんな、代わり映えのしない日常を過ごしていたある日のこと、とあるニュースが世間を震撼させた。
『○○製薬が死人を蘇らせる薬”modar(medicine of death and rebirth)”の開発に成功』
このニュースは感染病のように瞬く間に広がった。modarは臨床試験ののち指定の薬局で一般に販売され始めるようになり、人々はその効能を試さんと、血眼になって薬局を探し、薬を求めた。実際にmodarは、死んで間もない人に投与することで効果を発揮し、蘇った。テレビはこれを大々的に報道し、蘇った人のことを”再生した人”、”再人(さいと)”と名付けた。再人は生前の記憶をしっかり持っており、一般的に知られたゾンビのように腐敗することもなく、歳もとる。再人と一般人との大きな違いは見受けられなかった。ただ一つを除いては…。
事件は、modarが出回り始めて3日と経たないうちに起きた。都内で最初の再人が通勤中に、同じ電車に乗っていた一般人を噛み殺したというものだった。事件はこれだけでは終わらない。その後、続々と再人による噛みつき事件が報告され、その上、再人に噛みつかれ死んだ人が今度は再人となり人を襲い始めたのだ。とらえられた再人は意識もしっかりしており、自分が人を襲ったことも覚えていた。調べを進めると、彼らはみな人としての意識がありながら、人を食べたいという食欲にあらがうことができず、結果、人を襲うということだった。
これがmodarにおける唯一であり、最悪の副作用となった。
政府はすぐにmodarの販売を中止させ、再人となった人の一掃に踏み出した。しかし、再人は死ぬ前の記憶や人としての意識を持っていたことから、再人は人間であると主張する政治家や団体が現れた。その多くが身内に再人がいる人間や、再人自身であった。結果的に政府は、再人を然るべき手続きを踏んだうえで、一般人とは別の生活区域に移住させ、一般人との直接の接触をできる限り避けさせる取り決めをした。再人はみな政府の決めた隔離された生活領域に移住させられ、24時間体制で監視され、行動を制限された中、再び死ぬまでそこで生活させられることとなった。しかし、再人も自分たちの意思を持っているため、生活区域に移住を拒む者や、テロを起こす者まで現れ、すべての再人を収監することは困難を極めた。また、政府による再人の詳細な研究の結果、彼らは歳をとるが、身体の部位を欠損しても死ぬことはないということが判明した。政府もこれには対処に困り、最終的に一般人の平均年齢に達した再人は安楽死させるという決定に至った。その頃、移住の逃れていた再人がこうして社会は混乱のなか、平穏さを取り戻そうと動き出していった。

男が監房の外の世界がどうなっているかを少年に話し終えると、少年は驚きと恐怖で顔をひきつらせていた。
「そんなことになっていたなんて…」
少年は自分の知らない外の事情を知り、改めて衝撃を受けた様子だった。男はベッドの上に座りなおすと、少年に問いかけた。
「俺の左腕がないのは見てわかるな?」
男の質問の意図が分からず、少年は疑問気に男を見つめた。
「それだけじゃねえんだわ」
男は少年が瞬きしたのを確認すると、おもむろに着ていたシャツを脱いだ。男がシャツを脱いだ姿に少年は嗚咽をこらえることができなかった。男のみぞおちは、向こうのコンクリート壁が見えるほど大きくえぐれていた。
「移住を逃れ、デモ活動を繰り返した再人は、死なないのをいいことに、政府は武力を行使してねじ伏せるようになっていった。その最たる例がこれだ。」
男はえぐれた腹部を指先でなぞると、少年を見据えた。
「それってつまり…」
少年は男が語った話を思い出していた。
『再人は部位を欠損しても死なない』
そして
『再人は一般人を噛み殺す』
少年は目の前の男が再人であることを確信した。そして、再人は一般人を噛み殺す。つまりは喰われるということだ。
少年は状況を飲み込むことはできたが、腰が抜けてしまったのか、身体がまったく動かすことができなかった。少年の顔はみるみるうちに恐怖に塗りつぶされ、極度の緊張から瞼が痙攣し始めた。
「助けてくれ!この男は再人だ!!」
少年は薄ら笑いを浮かべた男の顔を凝視しながら、必死の思いで出せる限りの大声で叫んだ。すると、近くにいた看守が少年の叫び声を聞いて様子を見に来たのか、背後で革靴特有の硬い靴底のあたる足音が聞こえてきた。少年は目の前にいる再人の男を一刻も早くどうにかしてほしいと、「早くしてくれ」と何度も叫んだ。少年は足音から看守が監房の鉄格子の前まで来たのがわかった。少年は助かったと思い、うれし涙が零れ落ちた。しかし、少年の喜びに反し、看守は何をするわけでもなく、軽く鼻で笑うのが聞こえるとそのまま足音は遠ざかって行ってしまった。少年は看守が遠ざかる足音を聞き、絶望感に襲われた。頭のおかしくなった罪人の戯言だとでも思われ信じてもらえなかったのか、はたまたゾンビは手に負えないからと監房に閉じ込めておこうと判断したのか。どちらにしろ、自分は見捨てられたのだと理解すると、さきほどとは違い、今度は殺されるという恐怖や絶望から涙が溢れ出した。
看守がいなくなったのを確認したのか、男は少年の後ろに軽く目をやり、それからおもむろにベッドから腰を浮かせると、少年の頭部に右手を伸ばした。男の手が少年の髪の毛をわしづかみにした。喰われる。少年はそう思ったが、相変わらず身体は動かず、ただ涙を流しながら目を固く閉じ祈ることしかできなかった。
次の瞬間、男は少年の頭部を引っ張り上げた。少年は男に引っ張られ頭部が宙に浮く感覚とそれについてこない胴体の感覚に違和感があった。
そう、少年には首から下の身体が存在していなかったのだ。
男は、いたずらが成功した子供のように、無邪気であどけない笑顔を浮かべていた。

あとがき